自由と責任、無責任体制を考える

 新型コロナウイルスの感染拡大を受けて、帰省の自粛を要請する県知事が
いる一方で、帰省の意義を踏まえて予防措置等の自己責任で対応してもらう
という県知事もいる。

 もともと法的な強制力はないので、全てが自由で自己責任なのだが、感染
が発生した場合に、個人で責任を負うことは、よほどの故意がない限りない
し、指定感染症なので医療面での自己負担もほとんどないため、責任は限られ
ている。一番大きいのは、老親などが感染して入院、重症化すれば、後悔する
といった程度だろうか。

 

 最近のSNSによる風評被害や、匿名による誹謗中傷は、言論の自由がある
と言いながら、責任を伴っていない自由であり、自由というものを都合よく
解釈していると思う。かつて、総理大臣が国会でヤジを飛ばし、自分にも
言論の自由があるというようなことを言っていたが、これも自身の行為に
対する責任を無視したものと言える。
 もっとも、ご飯論法ではないが、質問に対して真面に答えないのは、自由
といいながら、職責の持つ責任を無視しているので、同じようなものかも
しれない。

 

 リーダーからして、この調子だから、政府全体の風潮が、法令違反をして
いなければどんなことでも許される、自由だという感じがある。国会等への
公文書の改ざん、花見の会における公文書の破棄など、法令で規定していない
のは、そこまでする者はいないだろうという思いで、言わば性善説なのか、
自分達に都合がいいからはわからないが、昔の常識が通用しなくなってきて
いる証でもある。

 金融証券取引法で、内部統制報告書を出すようにしたのは、米国の影響だが、
元々米国には性善説的な考え方はなくチェックするのが当たり前だったが、
経営者の場合はチェックが効かないために、仕組みとして機能することを
目指したものだと思う。
 日本の場合、形式的に内部統制があることになっていて、どこまで実効性が
あるかは怪しいところがあるが、官僚組織にはそういった内部統制が弱く、
いまだに内内で調査や処分をして済ませている。ある意味、官僚組織は昔から
無責任体制で、自分が担当している間は問題を起こさないで済ませるよう、
また、知らぬ存ぜぬで突っぱねられるように、記録文書なども十分に作成する
つもりがない。公文書管理法はザル法もいいところだと思う。

 話が戻るが、新型コロナウイルスに対する強制力を持たせると、自由を制限
することになるため、慎重な議論が必要という人もいるが、休業要請に強制力
を持たせる意味がどこまであるのか疑問がある。

 休業しか手段がないというのであれば別だが、感染は特定の業種でのみ発生
している訳ではなく、そこの従業員なり顧客に感染者がいるから発生している
のであって、そこを抑えることが本来のあり方だろう。
 クラスタを発生させないという意味でのガイドラインはあっても、休業要請
が必要かどうかには疑問がある。

 

 強制力が必要なのは、むしろ人間の行動の方で、感染した場合の移動制限や
報告義務、行動管理などをするべきで、ゾーニングとスクリーニングが容易に
なるような強制力が必要だと思う。自由は制限されるが、理由と期間が限定
されていれば、公益のために必要だと思うのだが。
 自由だけを認めて、感染拡大や感染した後の責任を問わないのは、片手落ち
だと思う。自由には、それなりの責任があることを社会全体で自覚するべき
だし、権利としての自由を守るためには、人まかせにしてはいけないと思う。

 感染が拡大した場合の責任を誰が負うのかも明確になっていない中で、帰省
がいいの悪いの、旅行がいいの悪いのと言っても始まらないと思うので、政府
は明確な責任体制を作るべきではないだろうか。少なくとも、政府の対策本部
は、無責任体制としかいいようがない。

 国難というのであれば、本部長が陣頭に立って指揮し、国民に対し毎日説明
する位のことがあってもいいと思う。