街歩きをしようかな

今週のお題「何して遊ぶ?」

 

 毎年、連休の時は出掛けても混雑するので、近場で過ごすことに
している。毎年恒例になっているのは、みどり日に植物園に行くこと。
 調布にある神代植物園に行くことが多いのは、都立公園なので、
入場料が無料になるというのが大きな理由なのだが、その年によって
咲いている花が違う。
 今年は、季節が進むのが2週間位早いような感じなので、例年
だと咲いている藤は、もう終わっているかもしれない。

 昔のみどりの日は、4月29日だったので、1週間位早かった。この時
期の1週間は結構大きな差があり、以前だとつつじや藤が綺麗だった
のだが、最近は盛りを過ぎていることが多い。
 今年は、おそらく例年だと咲き始めだったバラが、結構たくさん咲い
ているのではないかと想っている。また、芍薬もかなり咲いているのでは
なかろうか。
 そういった期待を巡らせながら、年に一度の植物園の訪問が連休
中の楽しみの一つである。

 連休は、遊びばかりでなく労働もすることが多かった。実家の生垣
や庭の草木が伸びてきているので、刈込と草取りに一日を費やすのが
恒例になっていた。
 ところが、昨年、道路拡張計画に対応して、生垣は無くなり、庭も
大幅に削られたことから、今年は恒例の作業も簡単に済ませることに
なりそうだ。
 作業をしながら、小さな畑をこしらえて家庭菜園の苗を植えたりして
楽しんでいたのだが、今年はプランターか植木鉢に野菜の苗を植える
ことにしようかと考えている。

そばは、大盛りがいい

今週のお題「盛り」

 

 お題の盛りと言われて浮かんだのは、「もりそば」だ。蕎麦屋で食べる
「もりそば」を見ても、それほど盛ってあるようには見えないし、神田のやぶ
そばは、盛ってないせいではあるまいが「せいろそば」と称している。
 ところが、地方によっては山盛りにして出してくるところもあるようだ。

 今から数十年前のこと、妻と結婚する前にドライブしたのだが、早めの
夕飯にしようと石和の蕎麦屋に入った。
 そこの蕎麦屋は、もりそばが食べ放題ということで、まだ若かった二人は
もりそばを注文したのだが、出てきたのはザルに山盛りになった蕎麦だった。
 私もそばは嫌いではないが、食べ放題と言われても追加をするまでには
至らなかった。ところが、妻は蕎麦好きということを言っていただけでなく、
そばならいくらでも食べれると言って、追加注文をした山盛りをぺろっとたい
らげてしまった。その食欲には感服するしかなかった。

 当時は、まだ中央自動車道が全通していなかったため、途中石和で
寄ることになったのだが、今は全通しているため、寄る機会もなくなってし
まったのだが、今回のお題を機に、また行ってみようかと考えている。
 調べてみると、店は無くなってはいないようだが、当時のような山盛りで
出てくることはなく、ごく普通の量のようだが、食べ放題のメニューは残って
いるようだ。
 当時ほど若くはないので、食べ放題に挑戦するかどうかは怪しいが、
思い出が蘇ってくるといいなと思っている。

 そばで沢山食べたという思い出は、岩手で「わんこそば」を食べた時が
ある。その時は家族で行ったのだが、子供はまだ小さかったにもかかわらず
100杯くらい食べていた。血筋は争えないのだろうか。
 「わんこそば」は、椀の蓋をしないと仲居さんが次から次へそばを入れて
くるので、半ば強制的に食べてしまうのだが、同じ「わんこそば」でも平泉
地方のは、お膳に椀がずらっと並んで出てくるので、自分のペースで食べる
ことができる。
 それでも、量にすると結構なものを食べている。「わんこそば」は、椀が
積みあがって、気分を盛り上げるところが面白い。

 「わんこそば」とは違って、出雲そばは割子が積まれて出てくるのだが、
これも沢山食べる人は盛り上がってくる。椀のようにどんどん積み上げる
ようなことはしないのだが、結果として割子の山がいくつも出来てくる。
 そう言えば、昔の蕎麦屋の出前では、盛り蕎麦の容器を山のように
積み上げて、片手に持ちながら自転車で運んでいたのを思い出した。
 今は、出前もオートバイの後ろに載せていくので、そういった風景も見ら
れなくななってしまい、それを知る人も少なくなったのではないだろうか。
 アクロバティックな出前は、昭和の風景として記憶にとどめておきたい。

やっと靴を買い替えた

今週のお題「変わった」

 

 あまり変化のない日常で、最近変わったのは靴を買い替えたこと。
十年以上履いているカジュアルシューズで、くたびれてきているとは思
っていたのだが、足に馴染んでいることもあり、なかなか買い替えられ
なかった。
 数年前から買い替えると言ってきたのだが、同じような靴があって
も高いので、もう少し安くなってからと思っていると店から製品が無く
なっていたりする。
 
 普通は、底がすり減ってしまい履けなくなることが多いのだが、その
靴は底がウレタン底でなかなか減らなかった。
 靴底より先に、内側の底の方がボロボロになってきたので、中敷
きを買ってしのいで来た。
 表皮もかなりくたびれてきていたのだが、靴クリームで手入れする
ことで、なんとか延命させてきた。

 何回か靴屋に通ってはみたが、これというものがなかったのだが、
新型コロナも収まってきて、でかける機会も増えるのではないかという
思いと、気分を新たにしようと思って、靴を買い替えた。
 今度の靴は、前の靴と違い表皮は革でない。手入れが楽だが
革のような温かみに欠ける。
 カジュアルシューズでというよりは、スニーカーに近いので、服装も
よりカジュアルな感じの方が似合うと思う。
 街へのお出かけ用には、何足か革靴を持っているので、少し趣向
を変えることで、気分も変わる。

 この靴が気に入った点はいくつかあり、履くのに靴ベラのようなもの
がいらず、足先から入れればフィットするというのがいい。
 前の靴もスリッポンタイプだったのだが、いくら足に馴染んでも、
かかとを踏みつぶしてしまうことが多かった。
 その点、今回の靴はかかとの形が外向きになっているので、踏み
つぶしにくくなっている。
 それ以外にも、靴紐が伸縮式で紐を結ぶ必要がなく、足を入れ
れば、フィットするようになっている。
 とは言っても、靴の形はモデルごとに違うし、履いてくると形が崩れ
てくるので、いつまで有効かはわからない。
 履いてみて違和感がない程度に締め付けられるサイズのものに
したのだが、耐久性は未知数と言える。

 私は、足が幅広甲高なので、米国の格好いいモデルの靴は、
サイズが2Eだったりして足に合わなかったのだが、今回の靴は日本
製ではないものの、うまく足に合った。
 値段はそれほど安くなかったのだが、気に入った点と足に合った
サイズがあったので、購入することにした。
 
 ウオーキングシューズは、通販で買うなどして、それほどこだわって
いないのに、カジュアルシューズにこだわっていたのは何故なのか、
自分でも不思議に思う。
 ただ、靴は何足も持っているが、不思議とよく履く靴とそうでない
靴ができてしまうのは、洋服と同じで身体に合うということと自分の
趣味に合うという両方が一致するものを選んでいるのだと思う。

 次回の買い替えがいつになるかはわからないが、自分の年齢を
考えると、そう何回も買い替えることはないと思う。
 次回買い替える時にも同じようなモデルがあるといいのだが、
服と同じで意外と定番の商品があるようでないことも多い。
 また、買い替えると言い出して、何年もかかってしまうのだろうか。
 ちなみに靴のブランドは、スケッチャーズだ。

 

メモの効用、思いつくままに

今週のお題「メモ」

 

 歳のせいだろうか、物忘れがひどい。ネットで何か検索しようとパソコンを開いた
はいいのだが、立ち上がった時には忘れている。
 どうせ大した事柄ではないのだが、なんとなくボケたのではないかと思ってしまう。
ボケているのは、私だけでなく妻も同じで、物忘れが頻繁にある。お互い、ボケた
もの勝ちと言い合っているのだが、重要なことはメモをするようにお互い気を付けて
いる。


 買い物を行くときは、必ずメモを書いてもらい、買う都度赤いボールペンで消込
をするようにしている。それでも、たまに項目を見落として、買い忘れてしまうことが
あるのだから困ったものだ。
 買い物だけでなく、外出する時には、こことここへ寄って何の用を足すかメモ
することが多い。何か所かを効率的に周るには、メモをしておいた方がいい。
 ただ、せっかく書いたメモを忘れてきてしまうということもあるので、その場合は、
ボケを自覚してやるせなくなる。


 用事がある場合だけでなく、何かの判断とか決断をする必要がある場合は、
簡単なメモをしておくことがある。じっくり考えるための検討要素といったものもあれ
ば、おおよそこの程度であればいいかなという感度を書いておく。
 メモがないと、衝動的に動いたり、あまり深く考えたりしないで突き進んでしまう
ことがあるので、できるだけ書くようにしている。
 頭の中で整理するのと、メモのように紙に落としてから整理するのは違うという
意識があるためだが、最近の人がやるような電子的に記録することは、どうも馴染
めない。
 スマホ上で電子的なメモも使ったりするのだが、これは単なる覚え書きにしか
使っていない。


 会議などで要旨なり要点をメモるのは意味がある。資料に書き込みをしたり
することもあるが、簡単なメモを用意しておいて、書き込みとは別にこの点は重要
だと思うことをメモしておけば、後でレビューするのに役立つ。
 会議で進行をしたり、質問を受けて答えるような場合、メモを取りながらする
のはよく見受けられる。聖徳太子ではないので、言われたことを全て覚えてはいられ
ないためなのだが、話を聴きながらメモをするのは、ある程度訓練しないと、聞き逃し
たりすることもあるため注意がいる。


 日常的にメモを取ることは多いのだが、メモをどこまで保存するかは難しいところ
がある。買い物メモのようなものは、全て買い終われば破棄してもいいのだが、欠品
とかで買い損ねてしまった場合、またメモを作るのも面倒だ。
 結局のところ、重要なものは再度メモを作成するのだが、前のメモが何となく残
ってしまうことがある。
 会議のメモも、かなり時間が経って見ると、潜在的な意識の中に残っているもの
もあれば、記憶の片隅にも残っていなかったりすることがある。
 それでも、メモを取っていたことで、その時に話を聴いたという記録だけは残る
ので、捏造といったことにはならないなと、最近の国会の騒ぎを見て思った。

 

夜桜はきれいだが、寒い

今週のお題「お花見」

 

 東京の桜は、ソメイヨシノが終わり、今は八重桜になっているが、
よその地方では、これからというところもあるだろう。
 お花見というと、なんとなく花を見るだけで、桜の下で宴会といった
構図もよく見られる。

 私が桜の下の宴会を初めて経験したのは、会社に入って1年目の
ことだった。
 当時は、仕事にも余裕があり、鎌倉橋の近くにオフィスがあったので
仕事が早く終わった後は、皇居の周りをランニングする人が何人もいた。
 そういった仲間で、ランニングの後に花見をしようということになり、私
も誘われるままに参加した。
 結果は、夜桜は傍目に見るときれいでいいのだが、夜の宴会は寒い。
ビールは当然冷たいし、日本酒はいくら飲んでも暖かくなる感じはしない。
これにこりて、次回からは参加しなくなった。
 江戸時代のお大尽は、座敷に桜の枝を持ち込んで花見をしたとか
いうのもむべなるかなと思った次第。

 まあ、特に花をつまみに酒を飲みたいというよりは、純粋に花を愛でたい
方なので、この季節の花見は、家の近くの桜並木とか、哲学堂から中野
方面へ足を延ばすことが多い。
 機会があれば、目黒川の川端を歩くのだが、今年はまだ桜が咲いて
いなかった。去年は、川面に花筏ができて、そこを走る遊覧船に手を振っ
たりしたのだが。

 花見と言えば、桜の花見だろうが、昔いた秋田ではつつじの花見を
した。角館のような桜の名所もあるのだが、東京でも寒いくらいなので、
秋田で夜桜を見るような花見は寒いため、少し季節が遅いつつじの花見
をすることになった。
 千秋公園でのつつじの花見は、山内村の芋を使った芋煮をつまみに
日本酒を飲んだ。
 まあ、芋煮鍋なので、いくらか暖まりはしたが、やはり夜は寒い。花見の
宴は座敷に限るということを改めて思ったものだった。

 新型コロナの影響で、花見も遠慮してきたため、今年はどこも多くの
人出で賑わっているようだが、だんだん出かけるのもおっくうになってきた。
 ただ、私ども夫婦には、一生に一度は見ておきたいという弘前の桜と
隅田川の川下りが、来年以降の課題になっている。
 まあ、他にも積み残しになっている課題がたくさんあるのだが。

あまい人生

今週のお題「あまい」

 

 甘いものが大好きなので、あまいと言えばお菓子を連想するのだが、
今回は、少し視点を変えてみようと思う。
 以前、母親から「お前は人に厳しく、自分にあまい」と言われたこと
があった。

 自分自身は、そんなつもりはなかったのだが、傍から見るとそういう
ところがあると見えたのだろう。
 確かに、自分ができることを他の人ができないと、「何でこんなことが
できないんだ」と言ったことがあったかもしれない。また、人が難儀をして
いるのを見ていても、助けを出さないといったこともあったかもしれない。
 一方で、自分ができないことは、やろうともしないで、できなくてもよし
としたり、うまくいかなくても、やったことがないからできないのは仕方ない
じゃないかと開き直ったりした。


 そう言われてからは、多少気にして、自分にあまくは治らないので、
人にもあまくするようになった気がする。
 但し、自分で仕事をする場合になって、自分にあまいままだと、成長
しないことに気が付いた。本当に自分に厳しい人は、過酷な試練を自ら
に課すのだろうが、軟弱な私はそこまでできないので、外部の資格試験
への合格を目標とすることにした。
 資格試験には合格したが、それを生かすには求められる職場に転職
するのがいいのだが、自分にあまい私はそこまでしなかった。


 多少歳を取ると、自分で何人かの後輩をまとめたり、リーダー的なこと
をまかされるようになったが、そうなるといつでも人にあまいままでは、全体
が回っていかないことに気づかされた。
 さりとて、厳しく接してもうまくいかないので、厳しい仕事は自分が多く
引き受け、残りをアドバイスしながら回していくということにした。
 リーダー的な役割では、それでいいのだが、これが管理職になり、部下
を持つようになると、そう簡単にはいかない。
 プレイイングマネージャーであれば、その延長線のようだが、それで部下
が育つかどうか疑問がある。
 多少のためらいはあっても、部下が自律的に動いて結果を出し、失敗
はあっても許し、自分が責任を引き受けるくらいでないといけないと思った。
 

 転勤のない職場は違うのかもしれないが、転勤して自分が去った時に、
部下が成長してないと、組織としては大きな障害になる。さらに、長い目
で見た時は、いい人間が育つかどうかで、組織全体がよくなるので、部下
の育成は、最重要課題と思っていた。
 部下がどう思っていたかは知らないが、少なくとも上を見て仕事をする
ような人間にはなるまいと思っていた。
 考えようでは、そういうことを言っていると出世が遅れる、考えがあまい
とする人もいるだろう。
 ただ、出世は社会的に地位があがることだけでなく、自分が仕事を通
じて世に出、社会的に役に立つ人間になってこそだと思うところがある。


 結果としてはあまい人生であったとしても、後悔のない人生をおくれる方
がよいと思う。

 

胃がん検診で思ったこと

 

 今週、胃がん検診で内視鏡検査を受診した。健保組合からの
補助があることもあって、毎年人間ドックを受けているのだが、去年
受診した時は内視鏡検査の予約が取れなかった。

 人間ドックのような定期健診に、どの程度の意義があるのかは
議論があるところだと思うが、職場健診を毎年受けていた延長で、
受けるのは当然かのように思っていた。
 但し、どのような検査項目をどのように受けるかは、職場健診の
場合、選択の余地がなく、これで受けてくださいという感じだった。
 健保組合からすれば、費用が高くなる検査は収支に影響する
ので、高額な検査はやらないということであったと思う。


 そういうことで、胃がん検診はバリウムを飲むX線検査をずっと続
けてきたのだが、X線検査では状態がよくわからないため、内視鏡
検査を受けるように勧められたのが数年前だったと思う。
 バリウムを飲んで診察台の上で動き回るよりは、内視鏡の方が
楽なのではと思って受けたのだが、内視鏡を飲み込むのが初めて
だったこともあり、相当苦しい思いをした。
 そこの内視鏡は管が太いこともあり、いくら喉に麻酔をかけても、
飲み込む時に違和感があり、嗚咽を繰り返して終わった。
 そのため、その後はバリウムによるX線検査に戻ったのだが、その
後ピロリ菌の除菌を勧められて、去年の初めに除菌をした。


 除菌の結果は特に問題なかったのだが、去年人間ドックを受け
た後に、医師からピロリ菌の除菌をした人は、内視鏡検査を受ける
ように告げられた。
 そんなことなら、人間ドックを受ける前に注意事項として教えて
もらいたかったし、内視鏡の予約も取れるようにしてくれよと言いたか
った。
 実のところ、内視鏡も考えたのだが、予約がずっと先まで埋まって
いたので、やむなくX線検査にしたということもある。ただ、当日健診
センターに行ったら、キャンセルでもあったのか、予約の空きが出ていた。
 後で医師からそんなことを言われることなど考えていなかったので、
変更はしなかったのだが、結局どこかで検査をすることになった。


 いつもなら、翌年の人間ドックまでスルーしてしまうのだが、たまたま
区から胃がん検診の案内が来ていて、そのメニューに内視鏡検査が
あることを見つけた。
 昔は、X線検査しかなかったと思うのだが、これを使えばタダで検査
ができるため、申し込むことにした。
 近くのクリニックに行ったのは1月だったが、予約が取れたのは3
月で、予算の関係からか来年度は内視鏡検査のメニューがなくなる
ようで、ギリギリセーフという状況だった。


 ということで、今週検査を受けたのだが、今回は検査を受けた
記憶がほとんどないような状態だった。
 喉の麻酔を受け、鎮静剤の注射を受けて処置台に横になり、
口にマウスピースを咥えたところまでは覚えているのだが、管を入れて
検査を受けたのは覚えていない。
 目が覚めたら検査は終わっていて、看護師さんから「もういいので、
起きて荷物を持って待合室に行ってください。」と言われ、若干フラフラ
しながら待合室で待っていると、保険証等を返され、結果は後日
医師会から通知されるということだった。
 今まで、内視鏡検査で苦しい思いをしたのは何だったのだろうか、
技術が進歩したのか、それとも薬の効果なのだろうか、これなら毎回
内視鏡検査でもいいかなと思った。


 人間ドックの結果には悪い数値があり、他にも別のクリニックで検査
を受けたりしたのだが、結果としては問題なしで経過観察になっている。
 検査は、単に医療機関を儲けさせているだけではないかという批判
もあるもしれないが、今回の内視鏡検査は、健診の意義より、安楽死
というのがあるとすれば、こういうことなのかという思いが浮かび、そういう
体験ができたというのが大きかった。
 コロナが落ち着いてきたというのもあるが、時と場合によっては、検査
も真面に受けられないかもしれないので、得られた機会は大事にしたい
ものだ。