自助・共助・公助の前提

 「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」という福沢諭吉
言は、封建制度から解き放された人々に、自ら努力をすれば、身分に
関係なく仕事ができるということを言っているが、これとも共通する
「天は自ら助くる者を助くという」フレーズが、今の自助という言葉に
つながっている。
 自助の前提は、自分が働くことで、自分の生活を支えることが出来る
し、かつ、働くことで明日への期待が持てるということがあると思う。

 

 共助が、どこから来ているのかは知らないが、そういった自立できる
人間が、お互いに足らざるを補っていくということが前提にあり、仮に
どちらかが一方的に依存するような関係は、共助とは言えないと思う。
 似たような意味に互助があるが、江戸時代の上杉鷹山が、自助・互助
・扶助という言葉を使って、藩の振興をしたように、こちらは相互に
助け合っていかないと生活を支えることができない位、藩が窮乏して
いたのだと思う。
 互助会という制度は、保険制度にも似たところがあるが、大きな仕組
みで生活を支えるということになると思う。
 そういう意味では、国民皆保険というのは、互助的なものの最たる
ものなのかもしれないが、多くの問題も抱えている。

 

 公助は、公の視点から見て困っている人間に助けを差し伸べるという
ことなので、その時の公的機関が実態を把握し、どのようにするべきか
という見解を示して、民主的な決定を受けて対象と基準を定めることが
前提になっていると思う。
 扶助は、単に助けるという意味であるが、上杉鷹山の場合は、藩が
飢饉の場合に、蔵米を放出するなどの、お上による支援のことだと思う。

 

 自助・共助・公助は、災害時の対応として使われるようなことが多い
が、自民党の綱領にもあるそうで、これを国の基本として考えている
のは、災害対策というより、自助を中心に置いて、不足する部分を国が
補うという考え方なのだと思う。


 ただ、自助に当てはまらず、共助も期待できない人は、公助の対象に
ならない場合、どうすることもできなくなってしまう。新型コロナの
流行で、自殺者の数が増加していることは、こういった実態を反映して
いるのではないだろうか。

 もし、自助を中心に据えるのであれば、自助が可能な環境が前提に
なっていないといけないのだが、こういった面での施策は後手に回る
ことが多い。
 自助に関することは国のやることではないという思い込みがあるのか、
それとも年金問題のように、面倒なことは先送りという姿勢なのだろう
か。

 

 時代の変化と共に、家族構成や年齢構成も変化し、働き手の意識も
変化していくなかで、あるべき自助とはどういうものなのかという
コンセンサスが出来ていないなかで、単に「自助・共助・公助」が
国の基本と言ってみたところで、すんなり心に落ちないと思うのは、
私だけではないと思う。


 今一度、自助・共助・公助の前提は何かということを考える時期に
来ていると思う。