父親の存在

 父が亡くなってから、十数年。今では、父親の存在を意識することは
あまり無くなってしまったが、昔は良くも悪くも意識せざるを得なかった。
 学生の頃は、稼ぎがないので、旅行へ行くとか、欲しいものがあれば、
親の許可が必要だったし、成績もそれほどいい訳ではなかったので、進級
可否が親のところへ郵送される時期になると、何を言われるか気になった。
 父はエンジニアでもあったので、考え方は合理的。こちらに大きな期待
は無かったのか、平均値から1シグマ以内の成績に入っていればいい、
つまり留年だけはするなよということだったかと思う。
 あまりうるさく言われることがない、よく言えば放任、自主性に任せる
という感じでいたのが、良かった点と悪かった点があると思う。

 それでも、父親がいて、何かの時には経済的な支援だけでなく、何らかの
アドバイスをもらえるということは、有難かった。

 

 自分が父親になってみると、子供の成長に合わせて、父親の役割は変わる
ので、何とも言えないが、基本的には子供を遠くから見守り、子供の足を
引っ張ることはしないというスタンスは、父から受け継いでいると思う。
 それが、どこまで続けられるかは、わからないが、父の日に子供から電話
があったりすると、口では素っ気ないが、心のうちでは嬉しいもので、これが
永く続いてくれるといいと思っている。
 一方で、傍から見ていると、自立しているのか大丈夫かなという思いが、
いつまでもあるのは、親にとって子供はいくつになっても子供ということなの
だと改めて思うものだ。

 そういう意味では、父親より母親の方が、子供のことを心配になるようで、
こちらが過保護だと言っても、あれこれとやり取りをしているようだが、
硬と軟、剛と柔ではないが、それぞれの持ち味があっていいような気がする。
 といっても、自分はそれほど硬派ではないのだが。